プレイヤーインタビュー

日本人タイリーガーの開拓者

元プロサッカー選手 / 猿田 浩得

J-GREEN 堺

日本人タイリーガーの開拓者

プロローグ

今回ご紹介するのは、サッカー選手として日本国内のみならず、タイをはじめとした海外クラブでも長らくプレーをされた猿田浩得(Saruta Hironori)さんです。
2005年に拓殖大学を卒業後は愛媛FCに所属し、クラブにとってJ2初のゴールをもたらしました。2009年からは当時日本人選手の数が皆無に等しかった異国”タイ”に移籍。ベストイレブンに選出される等の活躍をみせ、計9シーズンを過ごした日本人タイリーガーのKING。
2017年シーズンでの引退後は日本に帰国し、サッカーナショナルトレーニングセンター「J-GREEN堺」でセカンドキャリアを歩まれています。

ここ近年、タイのサッカー事情を日本でも目にする機会が増えてきましたよね。

そうですね。日本のJリーグ内にもチャナティップ選手(現:コンサドーレ札幌)やティーラトン選手(現:横浜F・マリノス)をはじめとした優秀なタイ人選手達が在籍しているだけでなく、2019年夏からはタイ代表に西野朗監督(2018年ロシアW杯時の日本代表監督)が就任した事も、影響していると思います。
また、今タイのリーグでプレーしている日本人選手数が、実は100人に近づいてきている点も見逃せません。日本代表としてのプレー実績もある細貝萌選手や、ハーフナー・マイク選手も、2019シーズンはタイでプレーをしていました。

猿田さんがタイに来た時は、これ程までの日本人選手はいませんでしたもんね?

累計で言っても、ごく僅かだったと思います。当時2000年代後半の海外移籍といえば、やはり欧州が中心。たとえ1部でなくとも、まずは欧州だろうと。しかしながら、私の場合《海外=アメリカ》というイメージが何故かあったんですよね。大ファンだったベッカム選手が、当時ロサンゼルス・ギャラクシーに加入し、MLSに注目が集まっていたのも一理あり、実は日本のクラブを退団した後、暫くはアメリカでのトライアウトも経験しているんです。そこでは残念ながら縁が無かったのですが、英語も何も分からない状況の自分であっても、プレーで光るものを見せれば、興味を示してくれる海外クラブはあるんだなと気付くキッカケになりました。

元々、海外でのプレー意欲は高かったんでしょうか?

いいえ全く(笑)。 ただ、広島に居る実家含め、人の縁にはいつも恵まれているなと思うのが、小学生時代にチームメイトだった幼馴染が、大学卒業後にシンガポールでプレーをしていたんです。(柴村直弥選手/中央大学⇒アルビレックス新潟シンガポール) 私が日本でプレーしていた際、色々と彼の海外での話を聞き、私のような小柄でスピードタイプのアタッカーが活きるサッカースタイルや、新たな異国文化を学べる点等を教えてもらい、徐々に興味は湧いていたように思います。それでアメリカのトライアウトに挑戦した後に、シンガポールでトライアウトを受け、2008年6月にバレスティア・カルサFCと契約をしました。なので、初の海外所属先はタイではなく、シンガポールだったんです。

その半年後にタイへ移籍をしていますよね

実はシンガポール時代に、大きな失敗をしているんです。日本から助っ人枠で来たというプライドが仇となり、なかなか監督陣と波長を合わすことができませんでした。「郷に入っては郷に従え」という、大事なことわざを理解する必要がありましたね。当時まだ若かったという事もあり、契約を途中で打ち切って帰国したんです。ただ、その反省を活かし「新たな国にチャレンジして、そこの文化やサッカーを尊重しよう」と思い、色々と話を聞くようにしました。ベトナムのトライアウトでは、チームから”すっぽかし”を食らった事もありますよ。わざわざホーチミンまで行ったのに、キャンプで1700km離れたハノイに行かれてました(笑)。 ちょうどベトナムのサッカー自体が熱を帯びてきた時だった事もあり、どこかのチームで決まりかけていた中、滞在ビザの関係で1度帰国しないといけなくなったんです。今思うと、これが重要な転機でしたね。ほんの数週間だけ日本にいた期間で、当時すでにタイリーグでのプレー経験のあった珍しい日本人に出会い「再度ベトナムに戻るついでにタイのトライアウトも寄ってみたら」と紹介されました。もちろんタイに行くのは初めてでしたが、日本人コミュニティも想像以上に多く、生活しやすそうだなという印象。肝心のサッカースタイルも面白そうで、トントン拍子にシーラーチャーFCと契約してもらい、2009年シーズンの開幕からプレーする事ができました。まさか9年間もプレーするとは想像もしてなかったですが、最も長く在籍したバンコク・グラスFCをはじめ、とても人に恵まれたなと思います。

その後、35歳となった2017シーズンを最後に現役引退し、日本への帰国を選択されたんですね

セカンドキャリアは人生で1番迷いました。広島から東京の大学に進学した時や、始めは小学校の用務員をこなしながらのセミプロ契約だった愛媛時代、未知の国への海外移籍、すべて自分の好奇心や興味本位で進んできたのですが、今回は違うなと。
その中で有難い事に、タイでサッカーコーチ等の仕事のオファーを頂く事もありましたし、妻もタイを気に入ってくれていました。地元の広島を中心とした日本でもコーチになる選択肢はあったものの、コーチとして過ごす自分を冷静に想像した時、何か違和感があったんですよね。それでも、自分のこれまでのサッカーひと筋のキャリアを考えると、コーチ以外で務まる仕事があるのかという不安感もありました。悩ましい日々を続けながらも、色々と知人に相談していたところ、「謙虚に努力をすれば、未経験からでも企業の需要はある」という事に気が付きました。そこで、日本においてまずはコーチ職ではない仕事に挑戦するという決意を固めた矢先、とある御縁によって、現職となるJ-GREEN堺の運営職をご紹介頂く事になりました。その御縁をくれた人物は、J-GREEN堺の藤縄社長。彼は私が拓殖大学時代、バーでアルバイトをしていた時の先輩なんです。同じ店舗ではなかったものの、経営組織グループが同じで、よく可愛がってもらっていました。そこからタイでプレーしている頃も、わざわざ現地まで何度も応援に来てくれたり、現役中からセカンドキャリアまで、ずっと気にかけてくれていた存在です。そんな大切な人への恩返しも込めて、一生懸命J-GREEN堺の為に働きたいと思っています。

実際にセカンドキャリアを歩み始めて1年半くらいが経過しますね

日々、学ぶ事だらけで楽しいですよ。業務内容としては、サッカーのトレーニング施設として使用されるJ-GREEN堺の運営を任されています。アジア諸国のジュニア年代を中心としたチームを招聘して、大会の企画や宿泊の手続き等を行ないます。そういった部分は、サッカーで培った経験も活きる部分ではあるものの、請求書発行やいわゆる「数字・計算」等の業務は未だに悪戦苦闘中です(苦笑)。それでも上司や同僚の方々のサポートもあり、コツコツ学ばせてもらっていますよ。ありがたいです。

猿田さんにとって、アスリートのセカンドキャリアの弊害は何だとお考えですか?

人それぞれだとは思いますが、僕の考えでは「プライド」です。やはりどうしてもアスリート時代に浴びた華やかな脚光は、引退後にはなかなか受けられないですよね。また、私の場合は現在37歳ですが、社会人としてはある意味まだ2年目なんですよね。一般的な大卒2年目とかだと24歳。当社においても、私に対して叱咤激励をしてくれる先輩社員が”年下”っていうケースも多々あります。そこのギャップに対して変なこだわりをもたず、いかに”謙虚に学ぶ姿勢”を持てるかが重要のように感じています。

最後に、タイをはじめとした海外へ挑戦中の選手に向けて、メッセージをお願いします。

おもいっきりプレーを楽しんで、やれるところまで挑戦して欲しいです。もちろんセカンドキャリアへの不安等も常に持ち合わせているかとは思いますが、謙虚に学ぶ姿勢や向上心を持ち続けられれば、引退後も様々なオファーがあると思いますし、このインタビューをしてくださっているNext Connect社のように、アスリートの就職を支援してくれる会社も色々あります。なので是非、自分自身の野望に目をそむけず、粘り強く取り組んでいってください。

《文:Next Connect 竹内 一平》2019年12月 執筆

関連情報

猿田 浩得 / 1982年10月28日生 ( 広島県出身 )

拓殖大学時代に関東大学選抜へ選出されたことをきっかけに、プロサッカー選手への道を志し、卒業後は2005年当時JFLの愛媛FCへ入団。加入1年目でクラブ史上初となるJ2への昇格の原動力となる。念願のプロ選手となった2年目には、開幕戦となる横浜FC戦で同クラブにとってJリーグ初得点者となり、初勝利に貢献。海外に活躍の場を移して以降は、バンコク・グラスFCでのカップ戦MVP受賞や、リーグベストイレブン選出はじめ、日本人タイリーガーのKINGとなった。合計10シーズンの海外生活を経て2018年2月、現役引退を発表。2018年3月よりナショナルトレーニングセンター「J-GREEN堺」において、アジア諸国のチーム誘致等に尽力中。妻と子供のみならず、父母と2人の兄への愛情もたっぷりのナイスガイ。


【J-GREEN堺 】
日本最大級のサッカートレーニング施設。
宿泊施設「DREAM CAMP」も併設しており、国内外から多数のフットボーラーが利用している。
http://jgreen-sakai.jp/