プレイヤーインタビュー

アメリカ育ちの日本人”元Jリーガー”が語る、語学と共に切り拓いたサッカーキャリア

元プロサッカー選手 / 森安 洋文

株式会社Football Heroes

アメリカ育ちの日本人"元Jリーガー"が語る、語学と共に切り拓いたサッカーキャリア

プロローグ

 今回紹介するのは、元プロサッカー選手である森安 洋文さんです。父親の転勤に伴い、少年時代をアメリカで過ごし、中学時に帰国。高校時代は清水エスパルスユースのDFレギュラーとして、2002年全国クラブユース選手権において無失点での全国制覇を達成。
 その後、JFLでのプレー等を経て2010年からオーストラリアへ海外挑戦。日本人初となるオーストラリアリーグからのACL出場。FC岐阜に所属した2012年、28歳でのJリーグデビューを果たし、2014年に現役を引退。現在は「英語で教えるサッカースクール」を展開する株式会社Football Heroesの代表取締役を務める。

アメリカだとサッカーよりも他のスポーツの方が人気ですよね?

 4大プロスポーツとされる「アメリカンフットボール(NFL)・野球(MLB)・バスケットボール(NBA)・アイスホッケー(NHL)」が、私がアメリカで過ごした1990年代は特にメジャーでしたね。サッカー界のスーパースターであるデビット・ベッカム氏がロサンゼルスのチームに加入した2007年以降は、徐々にサッカー人気も高まってきてはいますが、当時は全然。男子よりも女子チームの方が、練習場を占める割合は多かったです。
 ただ当時、私の場合は日本で1993年に開幕したJリーグで、開幕戦ゴールが決まったシーンの華やかさに憧れ、もっぱら将来の夢はJリーガー。アメリカサッカーといえば、フィジカル重視のイメージがありますが、私が住んでいた地域がメキシコにも面しているテキサス州だった事もあり、比較的日本人がプレーし易いパスサッカーを戦術の主体においたチームで少年時代を過ごす事ができました。

日本への帰国後は清水エスパルスユースに加入し、全国制覇も成し遂げられたのですね。

 父親の転勤都合により中学3年の1月に帰国し、静岡での生活が始まりました。サッカー強豪校がひしめく静岡とはいえ、タイミング的に各校のセレクションや新入生の編成はほぼ終わっている時期でした。どうにか清水エスパルスユースの練習参加にこぎつける事ができ、入団に向けたアピールの場を与えてもらいました。その際、対峙した年上のレギュラーの選手を、ノーファウルで吹き飛ばしたんです。特段フィジカルが強かった訳ではないと思うのですが、あまり日本人の中高生には見られない「年上を恐れない姿勢」がアメリカで自然に身についていたのか、その点を評価してもらい、入団する事ができました。
 その後は、時折トップチームで活躍する選手達(当時2002年日韓W杯にも選出された森岡隆三氏・三都主アレサンドロ氏・戸田和幸氏・市川大祐氏らが在籍)とも練習でマッチアップし、プロのプレーを肌で感じる機会にも恵まれました。高校2年時には良いメンバー達と共に勝ち上がる事ができ、クラブユース選手権で全国制覇。しかしながら、卒業後のトップチーム昇格には至らず、サッカーをプレーしながら、指導論等を学ぶ事のできる「JAPANサッカーカレッジ」への進学をする事にしました。

そこから海外挑戦に至るまでは、どのような経緯があったのですか?

 サッカーカレッジのあった新潟では〈学生3年+セミプロ2年〉といった形で計5年間プレーしました。初めてのアルバイトも雑貨屋や焼肉屋で経験した事も、今振り返ると大事な時間でしたね。もし高卒でそのままプロサッカー選手になっていたら、殆どサッカー以外の世界を知らずに社会人になってしまい、セカンドキャリアでも不安が多く付き纏ってしまったのではないかと思います。
 新潟の後は、当時JFL(Jリーグの1つ下のカテゴリー)に所属していた岡山のチームに移籍。しかしあまり出場機会を得る事ができず、1年でチームを去る事になりました。その時点で年齢としては24歳。家族からも一般就職の道を進められ、自問自答を繰り返す日々を過ごした後「やはりもう1度サッカーで挑戦したい」という思いになり、自分の強みを見つめ直しました。そんな時に、幼少期からアメリカで過ごしてきた事による「英語」をもっと活かせる環境を模索したところ、英語圏であるオーストラリアが頭の中に浮かびました。

2005年にはキングカズこと三浦知良選手がシドニーFCに所属していましたね。

 そうですね。私がシドニーFCに加入したのが2010年なので被ってはないのですが、三浦選手に次いで2人目の日本人となりました。ただ、いきなりシドニーFCに所属できた訳ではありません。オーストラリアの中で最上級カテゴリーとなるAリーグにおいても、常に優勝争いをするような強豪でしたからね。私の場合は、Aリーグのひとつ下のリーグからのスタートでした。そこに至るまでも数々のチームへの練習参加やセレクションにも挑戦しましたが。
 契約に至るまではプレー面でのアピールはもちろん、人間性やタイミングも重要になってきます。私の場合は幸いにも英語を自由に扱えた事により、自身のストロングポイント等を会長らに直接交渉できた事が大きかったですし、監督の戦術や要望に関しても通訳を介す事なく、深いコミュニケーションを取れた点が良かったのかなと振り返っています。チームの要望をしっかりとピッチ上で発揮できた事で、AリーグのシドニーFCへのステップアップを掴む事ができました。

そして、日本人初となる”オーストラリアからのACL出場者”となったのですね。
(※ACL:アジアNo.1のクラブチームを決定する大会。成績に応じて各国の強豪クラブにのみ出場権が与えられる。)

 オーストラリアに来た当初は、日本のJクラブとオーストラリアのクラブがACLで対戦している中継を友人らとパブで観ていたので、まさかその1年後に自分が出場するなんて、驚きましたね。グループステージでは鹿島アントラーズと国立競技場で対戦。通常の国際大会だと、Jクラブ側は試合中に日本語で戦術の話をしていても、相手チームには理解されないと思うのですが、僕にも丸聞こえだったのは不思議な感覚でしたね。それでも国立での試合は1-2で鹿島の勝利。小笠原満男選手を中心に、物凄く強い組織でした。

その後はFC岐阜へ移籍し、28歳でのJリーグデビューを飾ったのですね。

シドニーFCで在籍3シーズン目に入った頃、イタリアサッカー界のレジェンドである「アレッサンドロ・デルピエロ」がチームに加入する事になり、外国人選手枠の規定で、私は退団せざるを得ない状況になってしまったんです。次のステップとして、東南アジアから好条件のオファーもあったのですが、高校時代にお世話になっていた行徳浩二氏が監督を務めていた、FC岐阜からお声掛けを頂き、念願だったJリーガーに。同期達よりも時間はかかってしまいましたが、自身の強みだった英語を活かして海外挑戦した事により、幼少期からの夢を叶える事ができました。3シーズン在籍し、2014年に現役を引退する事になりますが、Jリーガーとして初めてピッチに立った日の事は、今でも鮮明に記憶に刻まれています。

引退後は”英語を活かしたサッカースクール”である「株式会社Football Heroes」を設立されたのですね。

自分自身、英語のおかげで色々と選択肢が広がったように、これからの日本サッカー界を担う子供たちにも、英語を身につけて欲しいと思っています。我々のスクールとしては、プロサッカー選手を養成する事が主目的ではなく、あくまで英会話の楽しさを身につける事に比重を置いています。もちろん英語初心者、サッカーやスポーツの初心者である子供も大歓迎。仮に英会話のコンテンツがなければ、人生でサッカーに触れ合う機会がなかったであろう子供もいるでしょうし、そういった事を通じて競技人口が少しでも増えて、微力ではありますがサッカー界に恩返しとなっていれば嬉しく思います。
また、上記スクール運営と並行して、日本人を対象としたオーストラリアへのサッカー留学サポートや、現地でのセミプロ契約締結に向けたサポートにも挑戦中。私自身が大きく成長できた国であるオーストラリアと、日本をサッカーで繋ぐような仕事ができるよう、これからも前向きに取り組んでいきます。

《文:Next Connect 竹内 一平》2020年11月 執筆

関連情報

株式会社Football Heroes
代表取締役:森安 洋文 / Hirofumi Moriyasu
生年月日:1985年 4月 23日

◆英語で教えるサッカースクール「英フット」を大阪府内3拠点(箕面/福島/茨木)で運営
◆オーストラリアへのサッカー留学、セミプロ契約に向けた相談も受付!

本社所在地:大阪府北中央区平野町2-2-9
公式HP: https://football-heroes.jp/